見渡すかぎりの白、白、白…
自分は一体何だった?
何のために生まれてきた?
家を抜け出して、森に行って、それで、それで…?
頭が痛い。何も思い出せない。
此処は、何処なんだろう?

「おい、目を覚ましたぞ」

人間の声だ。真っ白な人間が真っ白な空間で俺を見下げていた。
よくよく見ると、どうやら真っ白な空間は真っ赤な空間でもあったらしい。
鉄のかおりがした。何度も何度も嗅いだことのある、真っ赤なかおり。
ぼーっと見ていたら、真っ白が近付いてきて、黄色い液体を俺に注入した。
俺の意識は真っ白から真っ黒になった。

次に目を覚ましたのは、激しい痛みでだった。
痛くて痛くて痛くて痛くて、いっそ殺してくれたら、よかった。
でも、次第にどんどん痛くなくなっていって…
床に落ちた真っ赤な俺の右腕は、いつの間にか新しい右腕に生え変わっていた。
夢なんじゃないかと思った。
…けど、微かに残る痛みはこれが現実だと俺を嗤っていた。
そろそろ俺は本物のバケモノになってしまったらしい。
またやってきた、白い男たちを眺めていたら、今度も深い眠りへと落とされていった。

次に目を覚ました時も、その次に覚ましたときも…数えきれないくらい激痛で目が覚めて、その度に人間離れしていって、眠らされて…
唯一、静かに白い世界に居れる時は、食事の時間だけだった。
少量の食事を、何も考えずに、ただただ無心で口に含んで噛んで飲む。
その作業の繰り返しだった。味はしたのかしていないのかすらわからなかった。

でも、今日は違った。
投与され過ぎた麻酔は、ついに深い眠りまで誘えなくなったらしい。
痛みのかわりに人間の、甲高い悲鳴で目が覚めた。
俺には人事だったから、ただただ茫然とそれを聞いていた。
そのうちに、自分は今、腹が空いているらしいことがわかった。
当たり前だ。食べたか食べていないかわからないような生活をしていたのだから…。
そしたら、目の前から肉のかおりがしてきた。今や遠い昔に思える、幸せな日々を送っていたころ、嗅いだ、あのかおり。
何の肉かわからないけれど、そんなことはどうでもよかった。ひたすらに、その肉を食べてみたいと思った。

それからは簡単だった。
まるで、紙のように繋いでいた鎖は切れ、いつの間にか自然に馴染んでいった狼の血に、身を任せるだけだった。
目の前に動く大量の肉。鉄の檻を噛み千切ってしまえば、それはすぐ目の前にあった。
手当たり次第に食らいつき、肉を食べていく。此処に来てから、初めて美味しいと感じた。
真っ白な廊下が赤に変わる時、俺はすぐ隣の、悲鳴が聞こえていた部屋を突き破った。
大量の檻と真っ白な手術台。
人間だっただろう『それ』は、いつの日か俺が、珍しく哀れんだ目でみたこどもたちだったものだった。
真っ赤に染まった床からは、一人の女性研究員がいた。
女性、といっても、人間とわかるのは、所々『人間だったらしい』パーツが転がっていたからだ。
そして、目の前で女同様にぐちゃぐちゃになってしまったのは、恐らく『それ』だろう。
檻を切り裂き、中から出て来たそれを食い、壊れていく人間だったものを冷ややかに見下ろした。
…嗚呼、もう、食べるものがなくなってしまった。
研究所を空にしても満たされなかったらしい空腹感を抱え、無我夢中で森の中を走った。
腹が減った。何か食べたい・・・

気がつけば、俺は薄暗い森にいた。
どれくらい走っていたんだろう。見当もつかない。
それでも、とにかく遠くにきたらしいことはわかった。
一休みした時、背後から生き物のかおりがした。
我にかえるときには、すでにそれは人間ではなくて、ただの肉塊と化していた。
また、だ。またやってしまった。
俺は本格的にバケモノになってしまったようだった。研究所にいたときよりも、ずっと、ずっと、バケモノに。
腹が膨れると、急に睡魔が襲ってきた。
< 狼の高い体温が、冬の夜の寒さを感じさせない。俺は、そのまま微睡みの中に落ちていった。


起きては人を食べて、空腹が満たされると浅い眠りにおちて…
研究所ほどではないけれど、酷く作業的な日常だった。
いつしか、招かれざる客が住み着いてしまったこの森は、『人食い狼の住む森』として人々の恐怖の対象となっていた。
そんなある日だった。
いつも通り、通り掛かった男を食らい、森を真っ赤に染め上げていた。
最近は罪悪感も何も感じなくなっていた。
俺は、もしかするとバケモノではなくて、狼になってしまうのかもしれない。そんなことを考える日々を送っていた。
森には、血のかおりの他に、微かな薔薇と茶のかおりがしていた。

「狼は、狩人じゃなくて、赤頭巾を食べるらしいよ。そこの狼さん
それとも花畑で会った瞬間に食べてしまったのかな?」

森では嗅がないかおりに疑問を感じていたら、青年の声が聞こえて、俺は顔をあげた。
この惨状を見て、木に寄り掛かった金髪の少年は、何故他人事のように平然とそこに居るのだろうか。
もしかして、自分は食われないとでも思っているんだろうか。
それとも、恐怖で動けないだけだろうか。また、こいつもバケモノだと叫び出すのだろうか。
そうだ、このまま食べてしまおうか。
ぐるぐると思考を廻らせていたら、また、再び彼が口を開いた。ヒステリックな叫び声が来るのだろうと身構えた。

「人の話聞いてる?ねえ、狼さん」
「…」

頭がおかしいのだろうか。こいつは。
俺がそう思っていることを知っているのか、知らないのか…
わからないけれど、青年は勝手に続けた。

「人を食らうくらいなら、ドッグフードくらい出してあげるから、さ。
そんなにお腹ぺこぺこならおいでよ。
あんまり俺の家の近くを鉄臭くしてほしくないんだ」

青年は俺に背を向けて歩き出した。

「気が高ぶってる時は、ハーブティーがいいらしい。
…まあ、狼の場合どうかはしらないけどね」

ヒヒヒ…と独特な笑い方をして、来たであろう道を引き返した。
此処に来てから、人間と会うとこのまま噛み殺してしまうのが常だったけれど、俺はなぜか、この青年にそれをしなかった。
俺は、まるでなにかに操られていくように、彼の歩いた道を後ろからゆっくりと、それでも見失わないようにつけていった。




じめの一歩
(俺の家はすぐそこだから、ちゃんとついてきてね)
(…)